ハワイに聖公会教会が設立されたのは、カメハメハ王4世とエマ女王の招きによるものである。1861年12月15日、ロンドンのカンタベリー大主教公邸ランベス宮殿においてホノルル地区主教としてThomas Nettleship Staley氏が任命された。当初ハワイアン・リフォームド・カトリック・チャ−チと呼ばれたこの教会は1870年にアングリカン・チャ−チ・イン・ハワイと改名された。
1862年10月12日に初めての礼拝が行われたが、それは主教到着直前に若くして亡くなったハワイ王国の王子の喪中であった。しかしながら、この日のために以前から長期にわたり準備をしていたカメハメハ王4世は「祈祷書」のハワイ語訳をほぼ終わらせており、この新しい聖公会キリスト教をハワイの人達に紹介するための序章も書き上げていたのである。
カメハメハ王4世とエマ女王は大聖堂建設予定地として王室庭園の一部を寄贈した。教会建設計画と資金集めが進められている間、木造で仮大聖堂が建てられたが、それは第一期建築工事完了までにかかった20年あまりの間使用されることになる。
カメハメハ王4世が早すぎた死を迎えたのが1863年11月30日、聖アンデレ(セント・アンドリユース)の日であったことから、弟のカメハメハ王5世はこの大聖堂を聖人アンドリュースに捧げることにしたのである。
王の死後、大聖堂建設プロジェクトの指揮をとることになったエマ女王は資金調達、建築家の選択などのため自らイギリスを訪れた。 Nettleship 主教はホノルル赴任時、当時ハワイに存在した他教会同様に珊瑚と火山岩で大聖堂を建設するための建築図を持参してきていた。しかし尖り屋根のゴシック様式を選んだエマ女王はフランス、ノルマンディーのカエンにて石灰岩製アーチ、窓、支柱などを購入し、帆船の底荷としてハワイまで送ったのである。この最初の20年間は資金、労働者、建材の調達と苦労することが多かったが、亡き夫を偲ぶためこの大聖堂を建設したいというエマ女王のビジョンが熱い支持を集め、第一期建築工事完了を1886年クリスマスに間に合わせることができた。しかしそのエマ女王も前年1885年聖マルコの日に 大聖堂で礼拝する日を見ないまま亡くなったのであった。
クィーンズ・ホスピタル(現在のクィーンズ・メディカルセンター)、セント・アンドリューズ・プライオリー女子学校、セント・アルバンズ・スクール(現在のイオラニ・スクール)をはじめとする学校を創設したのは、結婚以来ハワイの人々の健康を守り、教育や精神性をより豊かにすることに献身してきたカメハメハ王4世とエマ女王であった。また、聖公会キリスト教がハワイの人々の性格気質にもっとも適していると感じたカメハメハ4世と女王はハワイにおけるその布教に多大な貢献を果たといえる。この様に王室と密接な関わりを持つ本教会においてはその伝統をあらゆる所に見る事ができる。大聖堂内The Wahi Kapu(聖なる場所)礼拝堂はカメカメハ王4世とエマ女王の寛大な精神と偉業を記念して建てられたものである。また、大聖堂前方に置かれた“kahili” (王室の色を使った赤と黄色の羽の支柱)はかつて本教会が王族達の信仰の場であったことの証しであり、今日も引き続き我々が守護者として尊ぶ王族達の存在を偲ばせる。本教会の歴史をみると、20世紀初め頃に全ての礼拝が英語で行われる様になる迄、その信者達はそれぞれハワイ語と英語を話す二つのグループに別れていた。その後様々な経緯を経て現在本教会では幾つかの礼拝プログラムがハワイ語で行われている。
社会貢献活動
本教会は低所得、新参移民家庭の多いホノルル市内カリヒ・ワエナ学校に対して、食料や文房具の寄付など支援活動を行っている。また、サイパンにあるセント・ポール教会に古着を集めて送り、彼らの経済生活の支援を行っている。この他にも毎年恵まれない子供達へ クリスマスギフト送る、ハワイ伝統農業を守る農場訪問、家庭・地域野菜庭園のワークショップの開催など様々な地域貢献活動を行っている。